すいせいむし

職場のおじさんに座右の銘を訊きました。「すいせいむし」という返答に「?」となった出来事が由来です。

最近、Huluをよく利用している。

 

「海を感じる時」という映画を観てみた。

 

若い女優さんが脱いでいると聞いて、どんなものかと思ったから。

 

女優の「大胆演技」をウリにする映画には、大体ガッカリさせられる。

 

犬神家の一族」の松嶋菜々子とか。「ストロベリーショートケイクス」の中越典子とか。「さよなら歌舞伎町」の前田敦子もひどかった。

 

「海を感じる時」もびっくりするほどひどかった。セックス描写の自主規制をここまでするなら、もうテーマとして扱わない方がいいと思った。

 

だって、全然愛撫シーンがない。いきなり挿入したら痛いだろ、入らないだろ。愛のないセックスなんでーすという解釈もあるかもしれないけど、せめて市川由衣に痛がる演技をしてもらいたかった。

 

市川由衣の裸目当てに見に来た若いお兄さんたちが参考にしたらどうするんだよ、ますます少子化が進むな。うん。

 

行きずりの変態とコトを致すシーンもあるのだが、変態が自分のお尻を見せないようにパンツを脱ぐシーンを見て笑ってしまった。

 

市川由衣の手首を拘束しているのに、裸にしないあたり「???」と思ったが、そういうフェチの変態なのかもしれない。が、自分のパンツはそんな遠慮せず脱いでくれ)

 

 月日が経って、「愛のコリーダ」が配信されていることに気づいて好奇心に負けて見てみることにした(「本番」とかなんだか怖いイメージがあったもので)。

 

 

拍子抜けするほど、美しく愛の物語だった。

 

こちらはちゃんと、愛撫シーンがある(当たり前か)。あとで相手の男のアレをちょん切っちゃう定も気持ちよさそうだ。だから、愛欲にはまっていくのだろうけど。

 

(見るの怖いなと思っていたけど、Huluのトップページに並んでいたキャプチャ(?)が二人のキスシーンで、なんだか気持ちよさそうに見えたというのも鑑賞の理由だ)

 

「海を〜」は女性作家が原作。「愛の〜」は言わずもがなの男性監督。一瞬、大島渚監督が女性視点を持っている方だったのだろうか?という考えがよぎったが、そこで思いを巡らせるのはストップした。

 

女にとってセックスが自傷行為になる時があるのを私は知っているからだ。

 

定のようなビッチは、愛情飢餓から起きる心の病ではないかと思うのだ。「海を〜」の主人公も自分の心の足りない部分をセックスで埋めようとしていたように思う。

 

そんな女を満たしてあげたいと思うのが男の欲望で、藤竜也が演じる吉蔵がそれを十二分に表現していると感じた。

 

昔見た「ヴァイブレーター」の大森南朋が演じた役もただひたすら女性に優しくて、「いい男」だと思っているのだが、この映画の原作は女性作家だなあ。吉蔵とこの大森南朋が演じた役は似ている気がする。あれ、やっぱり大島監督は女性の心を知っていたのかもしれない。

 

それとも、「女の理想の男」と「男の理想の男」は共通しているのかしら?

 

「海を〜」に感じたイライラは「現実の男」しか登場しないフラストレーションもあるかもしれない。市川由衣に「痛い」と言わせない現実が、女性として生きなければならない現実と重なって辛くなってしまった。

 

愛のコリーダ」を見終わって、ネットで情報検索をしていたら、定を演じた松田英子が撮影を終えてスタッフ経由で藤竜也から「白無垢」を手渡されたというエピソードを見つけた。

 

その意図はスタッフにしかわからないことだけど、演じることで裸になることが女性にとって汚れてしまったことになる世の中でなくなれば、表現はもっと自由になるのだろうと思えて悲しくなった。「白無垢」は「君は汚れていない」という慰めでなく、表現に真剣に取り組んだ女優への敬意であってほしいと願う。

 

おまけ。

ストロベリーショートケイクス」で中越典子にガッカリと書いたけど、それはブラを決して外さなかったことで、顔射された時のびっくりした表情はとても好き。あれ、やられたことないけど、自分がやられたら100年の恋も冷めるレベルで嫌だから。

 

さよならみどりちゃん」できちんと脱いだ星野真里が大好きだと大きな声で叫んだら、頭がおかしい人なのでこっそりこういうところに書いて残しておきます。

 

こういう大して脱いでないのに大騒ぎするようになったのって、この10年ぐらいかしらね?

 

 あらやだ、もうこんな時間だ、さあ寝よう。