恩を感じる
「恩」には重みがあるのではないかと、最近考えている。
借金がかさめば生活ができないように。
私の好きなアイドルが屈折10年以上を乗り越えて、陽の目を見ることになった、なりつつある?ある時から「恩返しがしたい」と事あるごとに口にするようになった。
その言葉を聞くたびに思い出す人がいるのだ。
アイドルの彼女たちには自分たちの「いま」がさまざまな人々から受けた恩から成り立っているのを強く感じているのかもしれない。
思い出すあの人は、それを感じられない人のようだった。
恩には重みがある。重みがあるから、存在を感じられるのかもしれない。
だから、私たちは恩のラリーをする。人生はその連続だ。恩を受けたお返しだ、そのまたお返しだ。恩は「信頼」の連鎖になる。
あの人は恩をラリーすることなくキャッチングしたまま。次第に周りから人がいなくなった。
私の頭の中では重く肩にのしかかった恩があの人を潰してしまったという想像をしていた。
私も離れた1人なのだ。
恩は手元に置いておきっぱなしにしていると重くなる。渡す恩はそんなに無尽蔵に湧き出るものではなく、そして彼の人がラリーしなかった恩のために、手持ちの球ならぬ恩がなくなった周囲の人間が去っていったのだ。
私はその人に恩を感じて恩を返していたが、いつしかそこまでしてやる義理もないなと、去ることにした。
その後も同じことを繰り返していたようで、噂に聞くたびに「恩」の存在が怖くなった。
返さなかった恩は、重みでその人間を地中に沈めるのだ。
恩は怨に変わるのかもしれない。